厳しい冬を経て鳥が囀り山笑う春の息吹が感じられる弥生3月桜月。麗らかな初春の陽ざしに誘われて玉縄の地を歩いてみよう。玉縄という名の起こりは縄文時代からこの地に人々が住んでいて土器の破片や美しい飾り玉が出土したからだという。何ともロマンを思わせる地域だ。
大船駅西口から大船フラワーセンター方面に歩く。5分程行くと五輪塔や六地蔵が祀られている所が「玉縄首塚」。
時は戦国時代、東京湾(江戸湾)の制海権をめぐって玉縄北条氏と房総安房里見氏が争いを繰り返していた。大永6年(1526)11月、里見義豊、実堯(さねたか)が鎌倉を攻撃、この時の戦禍で鶴岡八幡宮は炎上。玉縄城に向かった里見実堯を時の玉縄北条氏時(玉縄城主初代)の軍勢が戸部川(柏尾川)付近で迎え撃った。氏時はこの戦いで倒れた玉縄側35人の兵士の首級と里見氏側戦死者35人の首級を交換し、ここに葬り塚を築いたという。怨(おん)親(しん)平等(びょうどう)(敵味方の差別なく平等に慈悲の心で接すること)の心が現れている場所といえよう。
次に大船フラワーセンターに向かい突き当り右の道を行き龍寳寺トンネルを過ぎると曹洞宗の龍寳寺に着く。龍寳寺は玉縄城主北条綱成(玉縄城主3代)が建てた瑞光院を起源として、天正3年(1575)北条氏勝(玉縄城主6代)が父の北条氏繁(玉縄城主4代)の菩提を弔う為、現在の地に移し、氏繁の戒名(龍寳寺殿応栄公大居士)から寺名を「龍寳寺」と改めて建立し、玉縄北条氏三代の菩提所として栄えた。この場所は、鎌倉時代、公曉の七人の部下が源実朝の首を隠した場所とも伝わっている。本堂には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、実朝の位牌など安置され、境内には玉縄北条氏供養塔、玉縄ふるさと館、旧石井家住宅、新井白石の碑等がある。趣きのある茅葺の山門を抜けるとかつては七堂伽藍の大寺院だったというだけに広い境内が広がる。この時期は百花繚乱の世界に魅了される。
龍寳寺の後は貞宗寺を参拝しよう。大船フラワーセンターの横を通りコーナンホームセンターを過ぎて信号前角の道を西に進み、すぐ角を左に行くと貞宗寺への案内看板がある。矢印通り右へ進むと風情ある参道の突き当りが貞宗寺だ。
貞宗寺は小田原北条氏滅亡後の慶長16年(1611)創建。開基は貞宗院、阿弥陀三尊を本尊とする浄土宗、徳川家ゆかりの寺で三つ葉葵紋が屋根瓦や本堂内に印されている。徳川家康には側室が16人から20人おり、子息11人、子女6人を持つと言われている。側室3番目「お愛の方」との子供に第二将軍の秀忠と忠吉がいる。貞宗院はお愛の方の母、つまり秀忠の祖母にあたる。貞宗院は大奥でお年寄り役を務めた後、晩年この地を賜り慶長14年(1609)4月この地で没した。2年後、遺言により屋敷跡に貞宗寺が開かれた。
本堂脇には貞宗院が亡くなったこの時期と合わせるように見事な大木の更紗木蓮が咲き乱れる。空に向かって俯きかげんに咲く高潔な花はため息が出るほどの美しさだ。後の竹林がその景観を醸し出している。しばしの感動の後は春を探しに大船フラワーセンターに行くとしよう。春探索はまだまだ続く。
≪鎌倉歴史愛好家 田嶋早苗≫
